タマカズラ
初瀬に詣でた。
JR桜井駅から乗り換え、近鉄長谷寺駅で下車。
二時過ぎ。
何人かの参詣客が、黙々と寺へと続く階段を降りてゆく。
川を意識することなく。
道の脇に「初瀬ダム」の字が見える。
この川もダムによって凋んだ。
わらび餅や柿の葉寿司を商う土産物屋や旅籠のならぶ参道沿いに、こぽこぽと、しずかな音立てて流れる水路として、往古の豊かさを呟くように流れる。
『万葉集』に描かれる泊瀬川は激しい。
「石走りたぎち流るる泊瀬川 絶ゆることなくまたも来て見む」
絶ゆることなく、またも来て見む。そう、ここは隠国、初瀬の山。多くの死者が眠る葬送の地でもあった。三九九段の登り廊を目前に、檜皮で葺かれた屋根からもうもうと湯気が上がる。「こもりくの泊瀬の山の山の際に いさよふ雲は妹にかもあらむ」湧き上がる雲は、いとおしき死者の魂か。
初瀬は貴賎を問わず参詣客で賑わったという。『枕草子』には、「蓑虫などのやうなる者ども、集りて、立ち居、額づきなどして」との生々しい描写が見える。濃密な出会いの場としての初瀬。能ではそのような散文的な初瀬の活気はそぎ落とされ、しずかな秋、僧と女の二人の出会いが発端となる。
小舟に棹差す一人の女の姿。僧は驚く。「不思議やなこの川は山川の、さも浅くしてしかも漲る岩間伝ひを、小さき舟に棹さす人を見れば女なり」
一人の僧と、奇妙にさえ見える舟に棹差す女。なぜかわくわくする。現実の垣根を越える「劇」の始まりを前にした戸惑いを、僧と共有するからだろうか?不審がる僧を女ははぐらかす。昔から「海人小舟」と来れば「泊瀬」に決まっています(船→泊まり)。それよりも、「色づく木々の初瀬山」を御覧なさい。
女は僧と登り廊を歩いたか。駅から大分降りた分、取り戻すように石段を登った。頭上では長谷寺の縁起を語るスピーカーが喧しい。能に似合わぬ「雑音」でもあるだろう。宗宝殿(宝物殿)を過ぎる。ふと入ると、かわいらしい閻魔大王の木造。閻王の口や牡丹を吐かんとす(蕪村)。長谷寺と言えば牡丹と聞いていたが、どうもその季節ではないよう。二人の女性が宗宝殿の外で蟹を見付けうれしがっている。
やがて二本の杉の前に至る(本当にあるものです)。幹の太さからして、何代目かの二本の杉。『源氏物語』中の右近の歌を引く僧はすでに、〈玉鬘〉の物語に溶けいって、さらなる話を女に求める。
肥後の豪族・太夫監の求婚から逃れるため、船で都へ上った玉鬘たち。母・夕顔との再会を願い、ここ長谷寺に参詣し、かつての夕顔の侍女・右近と出会う。その右近のとりなしで光源氏に養女として迎えられるも、そこからが苦難の始まりでもあった。
養父となりながらも玉鬘の美しさに懸想する源氏。はかなく消えた夕顔の面影を重ねることで、源氏はますます玉鬘にのめりこむ。養父・源氏からの道ならぬ愛に悩み続ける玉鬘。『源氏物語』の中で、源氏は玉鬘に言い寄るだけではあきたらない。多くの貴族からの求婚を、半ばもてあそぶように演出しさえする。「蛍」巻では、求婚者・兵部卿宮を前に、蛍を放つことで玉鬘の姿を妖艶に浮かび上がらせる。
このようなくだくだしい背景が能〈玉鬘〉ではすっかり濾されてしまっている。養父・源氏との背徳的とさえ写る恋(道ならぬ恋?)は、この能の隠されたテーマとしてよいのであろうか。物語の古層を探る手つきが、抽象性を保ったまま何事かを現そうとする禅竹の意図に背くことになりはしまいか(どう見ようと自由なのは言うまでもないですが)。
後シテの一声。「恋ひわたる身はそれならで玉鬘 いかなる筋を尋ね来ぬらん」『源氏物語』「玉鬘」巻中、源氏が玉鬘と出会った喜びを歌うもの。能では玉鬘が美貌ゆえに翻弄された自身の境涯を嘆く歌となる。巧みな転用とも言えようが、この歌から、やがては玉鬘自身が歌ってしまう運命のようなものを感じてしまうのは私だけ?(考えすぎ?)藤原定家が、「くくる夜は面影見えて玉鬘 ならぬ恋する我ぞ悲しき」と詠んだときには、まだ微かに己の意に反する運命、というだけの意味で使われた「玉鬘」という語が、これまた運命に翻弄された『源氏物語』の「玉鬘」と混淆して、翻弄される存在の結晶として能になったのか?禅竹は、語と語の出会いの磁力に恐ろしく敏感であったのか?
ここにおいて玉鬘の舞う〈カケリ〉の意味も考えられるように思う。
玉鬘という個体を超えて、運命そのものの迸り・蠢きであること。
そしてキリにおいては、シテの身体は初瀬山の荒れ狂う山颪そのものとなって生死愛憎のめぐりあう様を開示する。〈玉鬘〉の狂いとは、文化(物語)と自然(初瀬)の出会いの謂いではなかろうか。
倶利伽羅落
寿永二(一一八三)年五月、加賀越中の国境・礪波山。
白山権現に願書をささげ、士気高らかなる木曽義仲の軍勢五万は、礪波山黒坂口に陣を布く。一方の平家軍十万余、兵を二手に分け、約三万を志雄山に、残る七万を倶利伽羅峠一帯に布陣。儀礼的な矢合わせの後、夜に入る。この間両軍の動きは対照的。行軍の疲れから、泥のように眠り込む平家。北陸の地理に明るい地元武士の助言を得て、兵を分け部隊を要所に展開させる義仲軍。
搦め手(裏手)に回る義仲軍・樋口兼光の兵三千は、千の太鼓・ほら貝を携える。数百の牛を(乱曲では千頭)集め、角に松明を燃やし、夜の更けるのを待つ木曽義仲。やがて牛は放たれた。夥しい太鼓・ほら貝の音、総勢五万の軍であげる鬨の声。パニックに陥った平家の軍勢は、次々と倶利伽羅峠に落ち重なる…。俗に言う「火牛の計」である。
火牛の計は、『史記』「田単列伝」に詳しい。田単は、紀元前三世紀ごろの中国・戦国時代の武将。またローマから史上最大の敵と恐れられたカルタゴの将・ハンニバルも、同様の計略を用いたことがあると言う。
平家が次々と滑落してゆく様は『平家物語』で饒舌に語られる。「親落とせば子も落とし、兄落とせば弟も続く。主落とせば家の子・郎党落としけり。馬には人、人には馬、落ち重なり、落ち重なり、さばかり深き谷ひとつを、平家の勢七万余騎でぞ埋めたりける。巌泉血を流し、屍骸丘をなせり。」
乱曲では、「馬には人、人には馬」の一節に凝縮されるわけだが、蓄積された文学のエッセンスだけを観客に提示する能の技法は、このような解説と別次元の「劇」となるはず。特に乱曲は、いったん整理された物語(能)の、さらなる精製物であり、そこでは、物語の呪縛から自由な役者の存在が何事かを語るだろう。
2008/12/5 響の会 第35回研究公演 パンフレット所収