頭脳演劇の黄昏2 新たなるパラドックスへ
◎ 第三エロチカ『ロスト・バビロン』
(1999.1.14〜24 於・ザ・スズナリ)
「君は役者になって、ヤクザ映画に出るのがいいよ」と柄谷行人氏が、新宿の飲み屋で俺に向かって言った。「柄谷さんは、この間お会いした奥崎謙三さんにキャラクターがそっくりですね」と言い返しはしたが、「そもそもヤクザ映画というジャンル自体が、残ってないじゃないですか」とは、頭の中で思っただけだった。そういえば、頭脳演劇というジャンルは、俺の唯一の本(『反論の熱帯雨林』テアトロ刊)の中にしか、存在しないのかもしれないなあ。
第三エロチカの川村毅には、頭脳なき演劇界への苛立ちと、ほかのジャンルの芸術家の演劇なき頭脳への羨望があった。劇団の座長という身分への、愛と嫌悪も半ばしていた。
俺のガールフレンドは、もののたとえではなくて、文字通りの“天使”なのだが、『ロスト・バビロン』を一緒に見た彼女に俺が、「ピストルを撃ちまくれるアミューズメント・パークという設定には、失われたヤクザ映画への郷愁とともいん、SFというジャンルでの“父親殺しのパラドックス”に類似した、戦後日本への“祖国殺しのパラドックス”といったねじれが感じられるね。撃たれて本当に死んだのかどうかわからないという“嘘つきのパラドックス”めいたねじれと同時に」と言うと、天使はこう応じたのだった。
「アクション映画のプロデューサーという役柄の男性は、ハイナー・ミュラー的ないかがわしさを体現した存在だけど、自他共に認めるインチキ臭さをまとっていると、あなたが言ったものとは違った、別のパラドックスが起こってくるのよ。“詐欺師のパラドックス”とでも言えるかしら、詐欺を遂行するためには、可能な限り誠実に、人とつきあわざるを得なくなってしまうという。この芝居でも、その男性と、シナリオ・ライターの女性との間に、高群逸枝と橋本憲三の夫婦愛にも似た、揺らぎのない愛が生まれかかっていたでしょう。生まれかわるのは、同性愛の友愛であってもいい。わたしたち天使には、性の区別はないんだけども」
そう言った存在が、何度見ても女性に見える、まだまだ修行不足の俺は、川村によるメロドラマを待望してしまうのだった。