2004年、9月。仙台。
宮城県美術館は広かった。東京を前日の夕方に出発し、ぼろぼろの、しかし広めのバンに乗り込んだのは、男5人とオンナ1人。夕方に出発して、翌朝には仙台に着く予定だった。距離的には大して長くなかったのかも知れない。免許も、車の知識もない僕には分からない。後部座席の三人(♂)はすぐにビールに手を着けていた。法的に運転可能な人間が、少しづつ減っていく旅だった。
そこでは、洲之内徹のコレクションが久しぶりに公開されるのだった。洲之内のことはなんとなく、奇妙な縁で知っていた。僕がいた高校の校歌を作詞したのが洲之内だった。しかし、四国松山の田舎の高校生だった僕にとって、洲之内徹という名はそれだけの朧な名前にすぎなかったし、松山での左翼活動と逮捕、戦中大陸で三光作戦の情報収集に関わったこと、田村泰次郎との縁で始めた現代画廊のこと、そして評価を固められないまま小説を書き続けたことなど、知るはずもなかった。
しかし、高校時代の記憶の中で、洲之内徹の名がもう一度浮かび上がる出来事はあった。それは高校の何かの記念の冊子だった。洲之内は大江健三郎と対談していた。僕はとても変な校歌を作ったのだけど、もうあの歌は無くなっていますよね、と洲之内。大江は、いいえ、僕はあの歌を歌った記憶があります、とあっさり答えた。その短い会話から、洲之内特有のシャイネスを読み取ることも出来るだろう。確たる評価を得ないままの小説家からの、評価され続けた、しかも自分より年若い小説家への、もどかしい自嘲もあったかもしれない。
僕が洲之内の本を手にしたのはいつだったか。数年前、高田馬場の古本市だったか。たいした本の並ばないその市で、僕は『絵の中の散歩』の文庫を手にしたのだった。淫するように僕はその本を味わった。そして僕はある友人に洲之内を勧めた。その友人は、ある種職業的な堅実さでもって、洲之内に関するデータを調べ上げた。そして彼は、松山に洲之内が創刊した同人誌が名前を変えて継続していることを知る。
それは夏だった。お盆を口実に実家に帰った僕は、その同人誌の関係者に電話をかけまくった。そして気が付けば僕は、洲之内と同世代で、しかも「治安維持法で捕まる前からの知り合い」という88歳の女性と電話しているのだった。その女性は、入り用であればその頃の同人誌もお送りしますよ、と言って下さった。
ぽつぽつとその女性との文通が始まった。そして、洲之内の同人誌はまだ見ないままに、宮城県美術館での洲之内コレクション公開を知り、半ばでっちあげのように仙台ツアーが実現していったのだった。『おいてけぼり』が出た少し後だろうか。そして松山で聞いた話が確かなら、そこの学芸員には、洲之内の隠し子さん?が入っているという。
────朝。駅近くの蕎麦屋で一杯引っかけてしまった僕らは美術館に到着。興奮しながら階段を登った。次々と、洲之内の本が甦る。あの松本竣介が、佐藤哲三が、四方田草炎、土居虎カズ。エトセトラ。えとせとら。。。
何かが違っていた。僕は、松本竣介のニコライ堂を前にしながら、奇妙な違和感を感じていた。本で読んだのと違う。何かが冷めていた。そして僕ははじめて、洲之内との距離を、今さらながら熱量の差を感じたのだった。どこかおろおろしながら順路を歩いた。その美術館を出る頃には、絵から受け取った興奮は確かに持ちながら、どこかその距離を冷静に見極めたい思いに駆られていた。割り込まれた視線にタイジせよ。それはその後見た東京ステーションギャラリーでの佐藤哲三展でも感じたことだった。まゆきよらかに。頬はあつく。いのちまた燃えたりかかる日の。かかる朝なり。青雲の思ひ流れやまず。流れやまず。茜明けゆく空のはたて。/まなびやの庭。春たけたり。千筋なす青柳風吹かば。掛けしたて琴。いとのひびき鳴りわたりぬ。鳴りわたりぬ。いのち秘めにし若きしらべ。/ 誇はたかく。夢はふかく。われらここに集ふここにして。唇に歌あり。ここにありて日は美はし。日は美はし。光もとめて生くる月日。
洲之内は、全く固有名の現れない最終校歌を残した。僕はその基音を頼りに、これから、洲之内自身の視線を無化するための考察を書き嗣ぐことにする。