三十代半ばの三文文士である私が偏愛する地帯、巨大な池であった場所を秀吉はじめ昭和の政治家に至るまでが埋め立てた所、工場や田んぼや城跡などが殺風景な姿をさらす、京都と大阪との境目、その辺りをうろついていると、「エピファニーⅠ」という作品の主人公である法一が、私に取りつく。
そもそもここら一帯を、作品の舞台として設定したのだったが、物語が始まる前に作品は、中断されたままである。
法一が「一人宗教」なるものを始めようとしたところで、それが一体何であるかが、私に見えていなかったのだ。
ところが最近、「頭脳演劇」なるものをやっている私が、それの一つの展開として、少数の観客を相手にする「パフォーマンス」を始めたところ、それが「一人宗教」のあり方の一つになると気づいたのだった。
私がそのパフォーマンスを始めたのは、2006年1月1日午前〇時、京都の新熊野神社であったが、たった一人の観客を相手に雑談をしていた私に、そこの神社で義満と出会ったという若き日の世阿弥が半ば憑依したのだ。
脳の中が半分世阿弥になった私が、中世のことばではなく現代語でムダ話をしていたことに、観客が気づいたかどうかは知らない。
しかしその時、パフォーマーである私と客との1対1の関係に、「一人宗教」が顕現していたのであった。その時私は法一だった。
これから私は、何らかの歴史の跡が残る場所で数知れぬパフォーマンスを行い、半ば歴史に侵食された脳によって、客との対話を、「一人宗教」として展開していこうと思う。私の脳と客の脳との間にいかなる化学反応が起こるかを、客と私とのプライヴァシーを守るために「虚構化」しながら、数知れぬ記録を残して行くつもりである。
2006.1.2