一人宗教なるものの唯一の教義みたいなものは、歩くこと、ただそれだけだった。一日に二、三時間は必ず歩く。それだけ。その間、何を考えていてもよく、何も考えないでもよい。
ただ近頃は、朝目覚めると、足が痛い。立ち上がることさえ難しく、這ってトイレまで行ったりする。通風になりかかっているようなのだ。主食はビールという日々を何年も続けて来たため、足の指に痺れが走るようになっている。生活習慣病というのか。この習慣は、断たねばなるまい。それも、一人宗教の活動のはじまりの一つとしよう。それを「あなた」との約束としよう。
「お前は仕事はしているのか」「やっとるよ。大学を出て十年、たいていは働いとるよ。月に十六万円くらいは」半日で税引き二万の仕事を週二回、月に計十六万円。それを持ったこともないのに、携帯電話のカタログの校正をやっているのだった。数字やアルファベットの間違いを正す。辛気臭い仕事なのだが、法一の性には合っているようで、誤字を見つけて赤を入れる時には、釣りをやって釣果を得たかのような気持ちのよさを一瞬感じ、飽きることがない。天職に近いのだろうが、三十三になって、目に疲れを感じたり、かすみがかかって見えたりするようになってしまった。ビールを飲みすぎたら、なおさらよくない。
いまは、あえてその仕事については触れずに、もう一つの仕事の方に話を向ける。つまり、名刺を渡してみる。「独身やから、食って行くぐらいは何とでもなる。肩書きとしてはこれだけや」そう言って、「一人宗教 法一」と書いた名刺を渡してみた。室田は、しばらくじっとそれを見て、「相変わらずだな、お前だけは」ぼそっと言った。「こんなのを、みんなに配り歩いているのか」「みんなじゃないよ。気が向いたときに、気に入った相手にだけだ。タイミングいうもんもあるしな」「それは、具体的には、どういう活動をやっているんだ」「いまのところ、何もやっていない。そのうちに何か、思いつくやろう。臨機応変が信条や。強いて言えば、散歩ぐらいかな」「散歩ねえ。そういやあ、ずいぶんやっていないな。で、本気なのか」「本気、真剣、大真面目よ」「お前はある意味、ものすごく真面目だったもんなあ。試験の前の一夜漬けの勉強しかしないけど、二十時間もぶっ通しでやるとか、言ってなかったか」「そんなこと、自分で言っとったっけ。まあ、ほんまの話やけどな。俺はマジメで、刑務所に入ったら、模範囚になるタイプや」
ははは、と室田は笑う。思い出した。こいつには、恩がある。「大きなお世話というか、おせっかいかもしれんが、老婆心いうやつやろう」十八歳になったばかりの室田は、そう言ったのだった。「なんや、その老婆心ってのは」「お前、自分が頭いいと思うか」「まあ、少しはな」「じゃあ、これだけを勉強しろ」法一が受けるつもりだと言っていた大学のその学部の受験に必要な各科目の参考書と問題集を一冊ずつ、持ってきたのだ。小遣いで、自分で買ってきたようだった。「騙されたと思って、これだけを勉強しろ」
騙されなかった。
たったそれだけで、受かってしまったのだった。忘れていたな。偶然に会えてよかった。何か恩返しをせなあかんな。一人宗教の教義にも、おそらく反さないだろう。ほんの少し、何かやってやろうやないか。「お前、いま時間あるのか」「うん、暇や」「二人で散歩しようじゃないか」室田が言い出した。決めたらはやい男だった。気がつくと、二人で明治通り沿いの歩道を歩いていた。
歩きながら、室田は話し始めた。
あと一週間、それだけしたら関西に帰る。仕事はやめる。病気だよ。自律神経失調としか言えないと医者は言う。血を吐いた。テレビの仕事で、働き過ぎには違いなかった。半年も休んで過ごした。会社からは戻ってもいいと言われていたが、もうやめる。派遣社員程度の仕事しかできないんじゃあ、しょうがないからな。休む前には女房がいて、彼女が病気になった。それが癌で、若いから進行がはやく、東北の実家で療養することになった。俺は当時は仕事第一で、看病に時間を取られる気はなかったんだ。向こうから、離婚を言いだしたよ。別れた後で、今度はこっちがこうなって、何もかも失ったわけだ。二人で住んでいたマンションは、その方が安上がりだから買ったんだが、必要もなくなるわけで、売ることにして、買い手を探しているところさ。ローンが残っているから、間に業者が入っている。明日から、業者とともに、何人かと会うことになる。で、お前にもし時間があれば、お願いしたいことがある。「いいよ」と、法一は言った。「何を頼むか、言ってもいないぜ」「かまへん。何でもいいな」「何でもって。ヨカナーンの首とか、そんな大したことじゃない。妹が東京に出てきているんだが、様子を見てきてほしいだけさ」「いいよ」
何であれ、恩返しをすることに決めていた法一は、繰り返して言う。「忙しそうだから、どうだったかは手紙で知らせる。関西の家に送ればいいか」
室田の妹が行方不明になったと、妹の友人から電話があったというのだった。行方不明と聞いたが、それは大げさな言い方で、学生の頃から参加していた劇団をやめ、連絡が取れなくなったのだと、室田も何度か会ったことがある、友人の女性は告げた。ケータイの番号を変え、引っ越したようで、居場所がわからない、と。
室田は、引越先も新しい電話番号も知っていたのだが、教えなかった。
大丈夫、元気にしてますよ、とその女性に言ったのだが、妹と会ったのは半年も前だ。いまの自分はマイナス・エネルギーを発しているだろうから、不安定な状態でいるかもしれない妹にあうことは、憚られる。
そこで法一に、代わりに会って来てくれと言うのだ。「俺は少なくとも、安定はしとるからなあ、低いレベルで」法一がそう言うと、室田は笑った。
室田の妹がやめたという劇団の仲間からどう思われているだろうかと、少し想像してみる。単にやめただけのことでも、後ろ足で砂をぶっかけてとか、言われかねまい。というか、おそらく言われているだろう。
現実として目にしなくなると、妄想というか、妄言が、とめどなく湧き出すようになるのだった。
「一人宗教」は、それの批判をもせねばなるまい。
妄想をなくせ。莫妄想、マクモウゾウ。
しかし、まあ、現実の金の流れや客が入る見込みなどを冷静に見てしまうと、小さな劇団は、何も始められないままで、終わってしまうのかもしれないな。やらないよりは、何にしろやった方がいいという考えもあろうが、あえて始めないままにとどめることも、一つの「仕事」ではないか。
一人宗教は探偵ではない、とは言えない。室田の頼みを聞かない理由は、何もない。この二、三年で急に増えた百五十円のカフェのコーヒーをおごってもらったから、それが依頼費ということになる。赤字には決まっているが、恩返しでもあるからな。
一人宗教は宗教法人ではないから税金を払うつもりなのだが、七円の消費税がそれに当たることになるのだった。