乱れ髪の雨によって、大洪水が始まる音。
散歩しながら、独白する法一。
法一 生まれて初めて作った名刺に「一人宗教 法一」と刷ったのが夏の終わりだった。それから何も始めてはいない。ただ儀式めいたものとして、長い間乗り慣れた自転車を俺は捨ててきた。高田馬場から上野まで行き、山手線の結界を越えて、荒川へ。荒川沿いに、アラーの神がいたのだった。アラーと川、革。息がむせる、皮革製造業の町。そこで働く、イスラム教徒。彼らと日本人との間に生まれ、地元の小学校に通う子供たち。それらを見て、荒川の土手に自転車を捨ててきた。かつてその辺りで起こった事件の犯人の少年が、少女を殺してしまった時にしたかもしれないように。後で気づいたにすぎないが。見知らぬ人に話しかけるのは、まだ苦手だ。いくつものラーメン屋に入り、ギョーザとビールを頼むのが、そこの地霊との関わりだった。ギョーザはどれも、ふだん法一が口にするものの一倍半くらいは、あった。神話や伝説にいわれがあるのかもしれない、由緒ありげな昔の地名は、橋や公園や学校の名に残ってはいても、少なくなってしまっている。ニューアムステルダムという名だったらしいニューヨークでのテロ事件は、神話的なイメージを持つと言えるだろうか。法一が「一人宗教」を名乗る時に、その名に纏わせているイメージは、いまのところ「乱れ髪の雨による大洪水」あるいは「その洪水の起こす音」だけである。はたして神話的だろうか。捨てた自転車を、誰だか、それを買いたくて買えなかった存在が見つけ、うまく使っていてくれたら、いい。自分でも把握できないイメージも、誰かがうまく有効利用してくれたら、いい。殺意を向けた相手への、追跡に使うこともあるだろう。昭和の一事件。犯人は自殺したのだったか、死刑になってしまったのだったか。必要があれば、調べれば、いい。イスラム教徒が生活するのに必要なのだろう、彼ら向けの食料品店が、荒川沿いのその地帯にはあり、ハーフの女子小学生が、たて笛を吹きながら、買い物をしに入って行くのを、俺は見た。店員の健康そうなイスラム教徒の長髪を見て、怪力サムソンの話を思い出し、怪力の秘密はサムソンの髪に宿るということだったかなどとあやふやに思い出し、髪になんらかの力が宿るという発想は、神話的なのかもしれぬと考えたりする。乱れ髪の雨。雨の日曜日。平日ぶらぶらしているよりも、休日散歩している方が、目立たない。目立って困る理由は、ないが。森の中に、木は隠せ。ひそかにやるのが、徳を積むということだろう。何ひとつやっていないのに。知らぬ間に起こってしまっている事件こそが、神話的ならぬがゆえに、「一人宗教」的な事件なのでは、ないか。一人で思っているだけで、対他的には、何の意味もない。刷った名刺も、まだ誰にも配ってはいない。まだ配るあてもない。一人宗教と「一人一殺」という思想は、重なる面が、あるだろうか。俺が人を殺すことは、起こりうるだろうか。日比谷での焼きうち事件のようなことが、これから起こる可能性も、ないではなかろう。ただその場合は、そういった空気が醸し出されたとしたら、俺は水を差す存在となるだろう。あるいは、水そのものに、なるだろう。そのためには、そのときのその場において、それなりの力を持てる立場に、いなければならぬ。ただの無名の一貧乏人で、よいのだろうか。名を売ることも、その方法も、考えておく必要があるかもしれんな。事件によって「地図」が変わる。世界の見方も変わるだろう。一人一殺というやりかたに多少は共感できるとすれば、一対一での関わりに重きを置いている点だろう。三人以上での関係が、俺は不得手でしかたない。待ち合わせの時間と場所のセッテイングなど、うまくいったためしすら、ない。AさんにBさんを紹介しようとして、スケジュール調整をやったつもりが、結局のところ、俺とAさんとの会合、俺とBさんとの会合、二回を別の日に別の場所で行うなどという意味のないことを、やってしまったことがある。集団を組織することは、できないだろう。君子は器にあらずという。俺が君子であるはずはないが、容器としての度量もなく、武器には定価も定型もないというのが世界の常識らしいが、武器を扱うことなど夢にもできまい。したがって、テロ事件とは、遂に無縁で終わるだろう、加害者としては。被害者として関わってしまうおそれは常にあるのだが。俺が乗り捨てた自転車に乗って、それに書いてある住所を見て、イスラム教徒と日本人とのハーフの子供が訪ねて来る可能性が、皆無であるとは言えまい。その時に、俺は何かを言えるだろうか。名刺を渡して、自分のことを話せるだろうか。場合によっては英語でもいい。あるいは、筆談であってもよかろう。「一人宗教」という言葉に、どれだけの意味を込められるか。俺はそのために、生きるだろうし、死ぬだろう。