演劇アナーキストです。文筆業者としての私は、「阪神大震災と演劇」をめぐるエッセイで、どさくさまぎれに、かろうじて誕生したので、関東大震災のどさくさまぎれに虐殺された大杉栄にあやかって、アナーキストを名乗っている。
ハイナー・ミュラーには、まず、家族がみんな西ドイツに移住したのに東にとどまったのは、当時の恋人が妊娠してしまっていたからだと自分で言ってしまう率直さに魅かれた。タクシーの運転手の話や、便所の落書きをも情報源とし、若い頃には住所不定無職の日々を送っていたというあたり、どうも他人とは思えない。滞日中に見た唯一の自由人は、駅のベンチに寝ていた酔っ払いだと語っていたが、その酔っ払いが私だったかもしれない。
ドイツには、こわくて行けない。マルクスの墓があるロンドンのハイゲート墓地や、パウル・ツェランが身投げしたセーヌ川から幻視はしたが、実際に足を踏み入れるのは、こわい。ワーグナーやヒットラーといった誇大妄想の天才達を成長させた土地の毒気にあてられて、立ち直れなくなりかねない。
ハイナー・ミュラーに対しても、強い畏怖の念はあるけれども、孤独への志向とか、すべてを戯曲の素材だとする性向などに、シンパシーを感じざるを得ない。
彼のテクストに触発されて「頭脳演劇」という言葉を考えついた。上演されない劇作家として、ここで「頭脳演劇宣言」をさせていただく。
戯曲を書いてはいるが劇団に入る気も作る気もなく、たまに演出家や製作者に売ろうとしても売れないがゆえに上演されないだけの私と、党によって上演禁止処分を受けたりしたミュラーを並べるのは無茶苦茶だが、無茶をやるのがアナーキストだ。
上演されたミュラーの作品を、何本かビデオで観たが、戯曲を読んで私の脳裏に浮かんだものと、まるで違った。それは当然で、戯曲自体が「上演」や「再現」を拒んでいるのだと思える。テクスト自体に「言葉と物」の乖離が刻み込まれているのに、その意味内容を「再現」しようとする「演出」などが可能であろうか。
「演出家」とは、作品中の「真理」の方に役者を導くと称して、他人を支配しようとする輩のことではないか。そのための手段として、演出家が口にするのが「身体感覚」というやつだ。そんなものを呼び起こそうと真面目に思ってしまうとき、役者はすなわち兵隊となる。上演作品を生かすために、役者はおのれを殺してしまう。国家のために、兵士が命を落とすように。
そういった「上演」や「再現」や「演出」や「身体感覚」への悪意が、ミュラーの戯曲からは強く感じ取られる。さらには、一人が生きるためには、別の人間が死なねばならないといった、「選別と排除」に基づく現代文明そのものへの懐疑が。あるいは、「どこにもない場所=ユートピア」への志向が。
いわば「不可能な可能体」として存在するテクストを書くことだけが、彼の生きがいではなかっただろうか。ユートピアになり得たかもしれなかった東ドイツで。「自由の不自由」に覆われた現在の日本からはそう見える。
頭脳演劇は、他人の身体感覚を支配=理解することなど出来ないという断念から出発する。俗に言う身体感覚などというものは「頭」が生み出す幻覚だ、劇場においても、戦場においても。ミュラーも言っているが、他国の兵士に「家畜」という役割を割り振れば、平気で殺せてしまったりする。
頭脳演劇は演出家のサディズムを否認する。特にこの国では、日本語が「敬語」を持っているせいもあり、際限もなく威張り出す演出家が出現する。自らの支配欲を自覚して抑制できる演出家が、テクストの思わぬ可能性を引き出し、次の戯曲へのヒントに満ちた上演をするなら、まあよい。
頭脳演劇は、たかが何度かの上演で、可能性がくみ尽くされてしまうような、薄っぺらな戯曲であってはならない。いわば一本の戯曲の中に、全世界を濃縮し尽くすような作品でなければならない。世界で何が起きようとも、俺のテクストの中には既に書かれていると、ミュラーのようにうそぶけるようなテクストをこそ書かなければならない。読むたびに別の作品であり得るような作品を目指さねばならない。読むたびに別の作品であり得るならば、仮に作者が死んでしまっても、どうってことないではないか。
頭脳演劇は、誇大妄想に陥らないためにもあえて不自由を選ぶ。テクストは「不可能な可能体」のままでもよい。上演への意思は実行への意思につながっていく。特にこの極東の島国では、「知行合一」の名のもとに、あるいは言霊の呪縛力への自覚されざる信仰によって、生粋の芸術家ですら、山師としてのやましさもあって、上演=実行に追い込まれていく。頭が作り出したまがいものの身体感覚によって。むろん私は三島由紀夫の事を言っている。彼は、どこかの路上で、不定形の踊りでも踊っていればよかったのである。
たまに私の戯曲を上演したいという人が現れても、勝手にしてくれ、「死霊」が書いたと思ってくれと言って嫌われる。そういえば『死霊』という作品を、独自の時間感覚で書き続けている埴谷雄高は、頭脳演劇の先駆者であると見なし得る。彼もまた「アナキスト」だと名乗っている。
ミュラーが除名された作家同盟がどういう組織だったのかもわからない。たまに劇作家協会の集まりに顔を出して、たかがこの国の演劇界の未来をぼんやりと考えるだけである。税金で各地に劇場が出来、公演やワークショップに金がおり始めている現在の状況は、明治末の「地方改良運動」の演劇による再演である。井上ひさしや別役実が、宮沢賢治の日本語の呪縛力に回収されていく、悲しいほどに能天気な眺めは、それが「翼賛会」的なものになっていくと予想させる。ノー・フューチャー・フォー・ユー。
演劇アナーキストが生息する余地はなくなっていくのかもしれないが、ミュラーならどう考え、どうしたろうかと常にシミュレートしながら、玉砕せずに、巧妙に生き抜いていきたい。
(かのう りょうすけ・頭脳演劇アナーキスト)