頭脳演劇の黄昏1 神経演劇の黎明
◎中島陽典構成・演出『死の棘・1999』
島田雅彦氏がオペラ・サヨクで、福田和也氏がパンク右翼なら、俺は歌謡曲アナキストかなと思考しながら劇場に足を踏み入れると、横にいた〈天使〉が「このすぐ近くに、かつて『騒(GAYA)』という有名なジャズ喫茶があったのよ」と言った。空間に残留する記憶を読み取ることが出来るらしい。さらに、「あなた、スガ秀実さんと昨日カラオケに行ったでしょう」と見抜かれた。大学を卒業していないスガさんが尾崎豊の『卒業』などを歌うのを聴きながら俺は、虫歯の痛みに耐えていただけなのだけれども。あらゆる歌はラヴ・ソングだと言えるだろうか。あらゆるドラマは愛の劇だと言えるだろうか。
初めての舞台化だという『死の棘』を観ていても、歯の痛みは薄れてはくれず、国立の劇場の客席にいると、低収入ゆえ税金も払わず、健康保険にも入っていない自らの非国民性が痛感され、そのくせにスガさんの口真似をして福祉国家の批判をしている自分の欺瞞性にも思い至りほんのちょっとだけ赤面したが、俺の推測では島尾敏雄もそうだったであろうに、おのが言動に〈やましさ〉は露ほども感じず、虫歯の痛みのように訪れる、精神医学などでは癒されるはずもない男女関係の非常里な軋みを描くこの作品から、視覚よりも聴覚よりも痛覚に訴える演劇のことを〈神経演劇〉と名付けようなどと思いつく。シュレーバー〈神経言語〉について研究してみるかと、劇中に流れるビートルズのラヴ・ソングを聴きながら泡のような思念を浮かべた。
終演後に天使が言った。「あなたの場合は<無神経演劇>と呼ぶべきじゃないの。作品が批判されても、恬として恥じていないじゃない。何日も虫歯の痛みに耐えていられるのも、鈍いからよ。島尾さんを勝手に自分の同類と思い込んでいるあたり、他者なき思考もいいところだわ。島尾さんとあなたに共通点があるとすれば、「大菩薩峠」にコンプレックスを抱いている点だけでしょうね。あの小説の<終わらなさ>に対抗しようとした島尾さんの無意識が、あの「死の棘」に描かれていたような事態を引き起こしたと言えるかもしれない。あなたも自分なりの<終わらなさ>を考えてみなさい。虫歯の痛みは、医者に治してもらえば、すぐに終わるけど」その前に健康保険に入らなきゃな。スガさんによると、福祉国家は国民を<生も死も自らは所有できないゾンビ的な終わらなさ>に追い込むという話である。