残酷頭脳演劇(ノイズ・オペラ)
「耳なし芳一」=器官なき身体=「分身とその演劇」
神楽坂を下り、飯田橋の辺りを歩き、歩道橋の階段を下りている最中に足を踏み外し、頭から転げ落ちてしまった。落ちているほんの須臾の間に、空から脳中に降って来たのが、「知=血=地=霊(ち)が騒ぐ演劇」という言葉だった。「知が騒ぐ演劇」の事を、頭脳演劇と呼んでいたのだが、それでは一部分しかカバー出来ないと、あたりまえの事に気付いたのだ。
長い間、抑圧して忘れていたのだが、作品によって復讐を果たすべき相手は、アルトー同様、俺にも何人かいたのだった。そのことを思うだけで、「血が騒ぐ」。アルトーの妄想のように、空が落ちて来る事すらも起こり得るだろう。メキシコでも地震が起こった。地殻変動はどこにでもある、「地が騒ぐ」。そして、さきわい続けているのは、言霊(言語ウイルス)だけであるはずもない。アルトーの霊は活動している、「霊(ち)が騒ぐ」。
「知=血=地=霊が騒ぐ演劇」という言葉を頭の中で反芻しながら紀州に行って来た。「南への衝迫」みたいなものが、俺にもあるのか。
戦前に田中清玄らが官憲と銃撃戦を交えたという和歌浦を歩いていたら、バリ島料理の店があったので入ってみた。イリオモテヤマネコみたいな猫がいた。ナシゴレンという焼き飯みたいなものを食べ、バリコーヒーという粉だらけのコーヒーをすすり、ガムランのテープを聴いていると、聖獣バロンと魔女ランダの永劫の戦いが幻視されたのだった。この紀州で「不可視の戦争がありありと見える」と書いた小説パラノイア・中上健次の「俺はここにはいない」という台詞が思い出されもした。店の主人は、今年の夏に、バリ島から舞踏手を呼び、地元の若者に何日かかけて稽古をつけてもらい、ケチャダンスを踊る夕べ設けたという。
主人 金がかかり過ぎるから、もう呼べないかもしれない。
芸者こそ呼ばないが、温泉に入ったり釣りをしたりで血を騒がせはするものの、俺にあるのは、実は「南への衝迫」ではない。かつて生駒山頂やエジンバラ城に行った時に持っていた「巨岩フェチ」みたいなものが、俺をここまで呼んだのだ。岬の崖っぷちの岩などを見に、酔狂にも来ていたのだ。入る温泉も岩風呂ばかりだ。そうだ、俺は……。
東京・新宿のねぐらに戻って来て、なぜ俺はここにいるのかを考えた。高層ビル群の景観のためだ。巨岩のようなビル群と、その垂直性。そうだ、俺は……。
アパートの隣人は、夜中に意味不明の叫び声を上げるような人で、うるさいのだが、今の東京ではこれくらいの事は日常茶飯事だし、もともと自分が「正常」だとも思っていないので、そのノイズも聞き流していたのだが、戻った翌日、俺の部屋の扉を開けて彼が言った。
隣人 この電話器に細工し田だろう。警察に突き出してやる。
彼の妄想世界ではそうなっているのかもしれないが、言いがかりをつけられて黙っているつもりはないので、牛込警察の警官を呼んだ。隣人はおろおろとして、勘違いでしたと言ったのだが、三人来た警官を見ながら、(かつて芝居をやった時に、シュルレアリストたちに妨害され、仲間が警官を呼び、ブルトンたちが逮捕された事があったっけ)などと、奇妙な記憶が蘇った。そうだ、俺は、俺はアントナン・アルトーだった。石や岩や垂直性に執着するのは、あの頃からだ。メキシコでも……。
「知=血=地=霊が騒ぐ演劇」とは、残酷頭脳演劇と呼んでもよかろう。
それを実現するために必要なものはなんだろうか。反動的だが、それは、固有名詞を持ったヒーローではないか。ある時代の歴史を濃縮して持つ一身体。ハムレットやマクベスのような。
文明開化以来のこの国の演劇には、そういった存在は、ほとんど見当たらないのだった。現実世界では、力道山や山口百恵などがいた。小説だと、『大菩薩峠』の机龍之助や『野獣死すべし』の伊達邦彦などが存在した(伊達は、高校の演劇部出身であり、犯罪者にならなかったら、見事な残酷演劇を作り上げたかもしれない)。純文学だと、「三四郎」と「丑松」と「秋幸」が思い当たるぐらいか(「私」によって固有名詞を消してしまうのが「文学」ではなかったか)。
歴史=物語をその身体に圧縮して持つ単独者は、戯曲の中には存在せず、例えばそれは、寺山修司という作家だったりしたのかもしれない(矢吹丈なんかに入れ揚げやがって)。
だが、これからは、登場人物の中にこそヒーローを、そのためには、アルトーの思考を、アルトーとして蘇らせねば……などと考えながら、新宿の街を、漫画家の根本敬氏と佐川一政氏と歩いていた(根本氏と佐川氏は、ともに、福田恒?存のファンだった過去を持つ)。するとたまたま、ある公園に迷い込んでしまった。そこは、小泉八雲公園といい、ラフカディオ・ハーンの家の跡地を、日本とギリシャが共同で、なかばギリシャ風の公園に作り上げているのだった。ホームレスは消されずに寝場所にしている。そう言えば、ハーンだけではなく、アルトーにも、ギリシャ人の血が流れていた。両者ともに、「神話へ衝迫」を持つ。なにげない現実の中にさえ、神話的なものを発見する能力をも。両者とも、植民地主義の時代に生きたのだった。アルトーがバリ島演劇を発見したのは、「植民地見本市」においてであった。今、太陽劇団の劇場があるヴァンセンヌの森で、そんな事をやっていたのだ。あそこに俺が行った時、ムヌーシュキンは、「ビバ・チカマツ」とサインしてくれたけれども。驚くべきことにアルトーは、「耳なし芳一」を超訳している。
そんな事を考えていると佐川氏が言った。
佐川 実は、僕は、八雲の子孫の一人らしいんです。コリン・ウィルソンも書いていますが……。
それを聞いた瞬間、佐川氏同様、神戸の辺りの出身で、源平の合戦跡に何度も出かけている俺に、またもや奇妙な記憶が蘇えった。俺は、俺は耳なし芳一だった。
瞳なき瞳で芳一(かのう)は、鬼王神社というのを見つけた。そこでは鬼の石像が、水の入った鉢を、頭の上に何百年も持たされ続けているのだった。
芳一(かのう)は、耳なき耳で鬼の声を聞く。
鬼 よそからやって来た連中が、災をもたらす疫病のように私を嫌い、鬼としたのだ。加害者が被害者を装うという、この永劫に続く欺瞞……。
(すると耳をもぎ取られた俺も、被害者じゃなくて何かの加害者だったのだろうか)と芳一(かのう)は考えた。琵琶を胸に抱えた芳一(かのう)は、歩く樹木のように歩き続ける。
ゴールデン街の飲み屋で、日本のアルトーと呼ばれた事もある男が放言していた。
器官なき身体じゃなくて、身体なき器官だ。
(そういえば、耳なし芳一ならぬ芳一なき耳は、今頃どうしているんだろうか)芳一(かのう)は考えた。君子は器にあらずって言ったのは孔子だったっけ。
芳一(かのう)は歩く。耳なき耳で情報を得る。ここから程遠くない所に、新国立劇場というのが出来るらしい。それに備えるという意味もあるんだろうが、新宿のとあるホテルで、演劇人たちの会議が行われていた。開かれた集まりだと言うので、楽師という演劇人のはしくれとして、芳一(かのう)も顔を出してみる。芸術家として、行政をいかに相手どるかといったことが議論されていた。もし国立の演劇大学が出来るのなら、琵琶の弾き方を教えて金が稼げるだろうかと考えながら芳一(かのう)は、その理念のまったき正しさに感服しながらも、理念だけなら「帝国」の「五族協和」という理念もまったく正しかっただろうと思ったのだった。実行=上演不可能じゃないか。
さらに芳一(かのう)は、象形文字のように歩く。高層ビル街を抜ける。鉱物質の垂直性としてのビルに魅かれる。
熊野神社の境内に入る。かつてここで坊主たちが、揺さぶると音が鳴る杖を持ちながら法を説いたのが、この国の芸能の起源の一つだとも言われている。昔あったという滝を芳一(かのう)は探してみるが、もはやない。かわりにもう一つの垂直性、杖を拾った。持ち主に悪いので、引き替えに琵琶を置いて去る。
歩きながら杖を振ってみる。氷のような音がした。音に合わせてハミングしてみる。金属のおおいが端につけてあるので、杖を突くと火花が散るのだった。この杖には見覚えがある。芳一(かのう)は強く思い出す。俺はアントナン・アルトーだった。もはや記憶は断片ではなく、一つの「全体」となっている。
何という人生だろう。そう呟くが、夜なので、死のような沈黙が答えるだけだ。星のない空が狂って見える。
この杖は、聖パトリックの杖だった。パトリックは、この杖によって蛇を殺戮し、アイルランドを人の住める地にしたのだった。俺はこの杖を持ってアイルランドに渡り、狂人として病院に入れられてしまったのだと、遂に芳一=かのう=アルトーは思い出す。
俺は演出家だった。劇作家(かのう)なんてガラガラ蛇だ。この杖で殺してしまおう。イターイ!
この杖は、なぜか同時に老子の杖でもあるという二重性を持つ。無用の用というものがある。
+
直観によって芳一(アルトー)は、新宿区・大久保に足を踏み入れる。外国人娼婦が何十人も、路上に立っているのだ。
消費するなら外国だが、金を稼ぐなら、未だこの「帝国」だ。
娼婦たちは、器官ある身体を売っている。(仮に俺が、事を為した後、金を払うのを拒んだら、すぐさまその場に「暴力租界」が現れる)と芳一(アルトー)は思うのだった。
アジアやロシアや南米から来た女性たちが舌足らずな日本語で誘うのを受け流しながら、彼女たちの雑談の中から芳一(アルトー)は情報を得る。共産主義の崩壊を、今頃になって知ったのだった。
カール・マルクスよりもハーポ・マルクスの方が偉大だと、当時から俺は言っていた。ブルトンが聞いたら、どんな顔をするだろう。
平家の没落に限らず、いつでも諸行無常なのだった。
芳一(アルトー)は、東欧に向かう事にする。そこでこそ、俺の異音を掻き鳴らしたい。
エピソードだけで有名になったのだ。芳一の音楽など、誰も聴いてはいなかった。「チェンチ一族」を誰も見てはいないように。虚名には何の未練もない。
この娼婦たちは、「心の娘たち」に加えよう。麻薬中毒に鳴らないように、気をつけなよ。
+
十年後。東欧。響かずに揺れる鐘の地帯(ゾーン)。
芳一(アルトー)はスパイだった。両刀使いになっている。ベッドの中で多言語を覚えたのだが、女性しか相手にしないと、女言葉しか使えなくなってしまうからだった。
何重にも孤独だった。何重にも裏切った。あらゆる組識から除名されている。
改造した杖は、楽器にも武器にもなった。
戦いに慣れない頃は、いちいち名乗りを上げ、ひとくさり歌い舞ってから戦おうとして、蒙古軍を相手にしたサムライのようだと嘲笑された。
背中の刺された傷が痛むが、自分では見れないのだった。
殺されても死ななかった。はじめから死んでいたからである。当然のように、眠りも夢も必要はない。
敵を解体したときの、瞳なき瞳による解剖学的付知見と、耳なき耳学問によって、あんまも出来たし、鍼師もやれたが、本人は、痩せて、限りなく骨と皮と神経にだけ近付いていた。
ジンギスカンは義経だったという話をしても、誰も義経を知らなかった。
髭と頭を剃りに行った床屋で言われた。
床屋 ガラス玉みたいな頭ですね。光が乱反射していますよ。
切断された頭部を持って歩いた事もあり、何度か身体をバラバラにされたのだが、そのたびに繋ぎ直したのだった。
一人軍隊=一人宗教=一人演劇=一人オーケストラだと自分では考えていた。
多重人格の気があったが、芳一としては、幼児虐待を受けたせいかも知れないし、アルトーとしては、五十回以上も受けた電気ショック療法のせいかもしれなかった。たった一つの人格では、耐えられない事もあるのだ。
もう何も書けないだろうと言った精神科医(ラカン)を否認する為に、毎日カフェに行って何かしら書いた。サダム・フセインへの上奏文というのを戯れに書いた。アルトーとしては、ヒトラーと話した事もあるんだぜ。
芳一(アルトー)の、ユリシーズの瞳なき瞳にだけ見えるのだが、あらゆる場所に、火山が遍在するのだった。火口から岩が、そして時折星空から隕石が、芳一に向けて飛来するのだ。その岩や隕石を加工して、宝石として売る技術も身につけた。流浪の身には宝石は、持ち運びにも便利である。
たまに花崗岩を見かけると、芳一(アルトー)は、その上に立つ。すると地球の中心から、マントル層を垂直に貫いて、芳一の身体に、エネルギーが駆け登って来るのだった。
芳一(アルトー)は、法一と名を改める事にした。
法は一つだからである。
(かのうりょうすけ・演劇パラノイア)
〔1996年〕