歩けるだけ歩き回った。
瓦礫などでふさがれて通れない道も多いが、被災地を何度も歩いた。夜になったら電車に乗って、揺れはしたが被害のなかった大阪府枚方市にある実家に帰って眠る、何とも気楽な立場だったが。
歩いていると喉がかわいて、自動販売機のジュースを買う。温かいものは売り切れているので冷たいのにすると、半分氷になっていた。機械も半ば壊れているのだ。それでも飲む。
晴天の霹靂と言うしかなかった今回の震災であるが、起こってしまえば現実だ。
無名の劇作家である私は、1月17日の朝から、東京の街を仕事を探して歩き回っており、夕方になって、食堂のラジオではじめて地震のことを知り、職探しという当面の現実を回避して、何とか数万円を手に入れ、23日、関西に戻ったのだった。東京の大学に入らず、実家が西宮から引っ越さなかった場合の、どうなっているか分からないもう一人の自分を、幻視するためだったかもしれない。
24日に行ってみると、卒業した広田小学校は避難所になっており、よく野球をしていた広場には、仮設住宅が建てられつつある。たまにサッカーをした西宮市民グラウンドには、自衛隊のジープやヘリコプターが集っている。
ヘリコプターの音が、生き埋めになった人の声をかき消したとも、被災者に、地鳴りを思い出させると聞くが、私には分からない。
阪神間には、細かい道でも土地勘がある。子供の頃には、自転車にばかり乗っていたし、上京後も、半年に一度はこの地帯に来て歩き回った。主に、戯曲のことを考えていたのだ。
「量子力学や天変地異や奇蹟、すなわち世界の謎といったようなもの」を隠しテーマに、しかも、作曲もできないのに、「日本語のオペラ」をやろうとしているのだから、日の目を見る可能性は、活断層の研究家よりも低いであろう。書いたものは、「異音集」、唯一上演した「季節の地獄」、「地平線の音階」、「架空のオペラ」と、9年がかりで4本になった。そろそろ、世に問うにふさわしい時代が近づいているのではないかと思うのは、歩き疲れた頭に浮かぶ幻想か。
高速道路や新幹線すら、寸断されたり曲がったりしていた。建物も、倒れたり傾いたりしており、もともと坂の多い地帯でもあり、どれが正しい垂直線か分からない。
これを見たのは28日だが、日本の標準時を示す、明石の天文台の時計も、5時46分で止まったままだった。
そういう場所を、1月24から2月7日まで、何度も、時間を忘れて歩き回っていると、私の曲がりくねった思考や感性が解放されて来るようで、またぞろ売れもしない戯曲のことを考えてしまう。
私が今書いている三部作、「熱帯雨林」、「不可触高原」、「水の惑星」の登場人物である発明家は、不可能だと言われている地震の予知にも挑んでいる。不可解な仮説をたてているのだ。「コビト理論」という。「我々が知り得る限りの、物質の最小単位はコビトである。病気も、天変地異も、民族大移動もコビトが起こす。したがって、コビトとコミュニケーションをとれれば、すべてを予知や制御できる」というものだ。
歩き回っていると、地震の前に、ゴキブリやらイルカやら、動物の様子がおかしかったと聞いた。コビトとコミュニケーションをとれれば、動物とも話が出来ると、作中の発明家は言うのだ。その仮説に基づいて、21世紀の大産業を起こそうともしている。ほかに、「無意識とは、20世紀の迷信だ」と言い切る「告白仮面」なども登場する、支離滅裂な戯曲だが、被災地を歩き回っていると、きわめてリアルに思えて来る。
27日、無事だった尼崎の友人に、「コビト理論」の話をすると、地震が来ていた数十秒は、コビトならぬ巨人にも体をわしづかみにされ、縦と横に、カクテルのようにシェイクされた気がしたと言う。そこが震源地だと思い、死を覚悟した。勘が働いて、目覚めて立っていなければ、箪笥の下敷になっていたはずだと言う。異音がし、窓の外が一瞬光って、揺れが来た。
その巨人って、バーテンだったのかと、私が言っても笑わない。「世界で一番大きなコビト」だったんじゃないかと言うと、ちょっとだけ笑ってくれた。
その友人の家と神戸の会社は、壊れはしなかったので、片道2時間半かけて自転車で通勤している。橋の上を通っている時とか、今余震が来たら終わりだな、何度も思うと言う。
「俺なんかましな方でさ、家も家族も会社も仕事もなくした人やって多いんやからね」
何人か自殺者が出た。半壊した家から動かず、飢えや寒さや疲れや不安で死ぬ人もいる。葬儀の場所も足りないと言う。記憶喪失者も出た。
歩き回り、公衆便所で小便をしていると、覗き込んで来るおっさんがいる。誰にでも同じ事をやっている。見ていると見つめ返して来るが、視線が焦点を結んでいない。
水が止まっていると、便所はひどい状態となる。電気が来ないと、夜は本当の闇となる。
あたりまえだと思っていることが、いかに貴重か。思考が解放されるなどと妄言を吐くのは、私が安全地帯にいたからである。
友人は、「運がよかったのか、虫の知らせで助かったんやけど、その虫っていうのがコビトかも知れんね」と、私のたわごとにつき合ってくれた。
その日、27日も、垂直線のなくなった街を歩き回り、曲がりくねった思考を重ねた。半壊したお寺の人が、「秘仏が無事かどうかは確認できない。ご開帳の時まであと20年あるから」と言っていた。
路傍の石のような劇作家が意見を開陳するのは、いかにも安っぽいが、これぐらいのことには国の戦争で慣れていると平然としていた、多分ベトナム人らしい人の万分の一もない、ガキの意見を続ける。
私としては、少しでも面白いものを書き続けるしかない。80歳になる2050年頃には、満足出来るものが書けるだろう。報われるかどうかは知らない。これから起こる天変地異で、生き残れるかどうかも知らない。出来ることを続けるしかない。
28日も、歩き回ると、建物の解体作業で出る埃などで顔が黒くなる。臭いには鈍感になっているのだろうが、判断出来ない。喉も痛い。
コーヒーは、二百円か百円か無料だ。私が見る限り、便乗値上げはやっていない。かえって、安くなっている。床屋さんが、五百円でカットだけやっている。水が出ないから洗髪は出来ない。水の要らないシャンプーが売れているようだ。風呂は本当に極楽だろう。
「兄ちゃん、食って行きや」と言われて、ただで配っているうどんを貰う。とろろこんぶが入っている。被災者ではないが、有り難くいただこうとすると、横のおじさんが「もちも入れたらんかい」と言って、もちを入れてくれる。どこかの組の人らしい。ごちそうさまでした。
いろんなものが捨てられている。うち捨てられた鳥籠が、物質化された悲しみに見える。かつて探していた「たけし!」という本を拾う。私の早大演劇科からの卒論は、ビートたけしのことを書いた。本を捨てた人はどうなったのだろう。
被害の大きかった東灘区に行った。「細雪」や「黄色い人」によると、かつては洪水が多い地帯だったようだ。母校の灘高校を訪ねると、避難所になっている。体育館が、遺体安置所になっている。遺体は、寸断されてしまっていたりするという。馬場広典ですがと名乗ると、先生は思い出して下さる。いつから授業再開出来るか分からない、受験生用の内申書が無事だったのが何よりだという。家が全壊してしまったというのに、生徒のために忙しく働いておられる姿に頭が下がる。ここで、授業をさぼりながら書いた「異音集」に、「俺は地震を起こす鬼だから」というフレーズがあるのを思い出した。こんなことまで書いている私は、告白仮面に違いない。
30日、建築家の山崎泰孝氏の、大阪の淀屋橋にある事務所にお伺いした。
山崎氏が設計された芦屋のルナホールは、吊り物が落下したが、ある程度の補修ですむという。が、私が歩きながら見た神戸国際会館などは、建物自体が傾斜しており、修復不可能である。
今回、建物の被害が大きかったのは、想定していた以上のエネルギーで、しかも、主に備えていた横揺れだけでなく、強い縦揺れが来たからだという。
山崎氏は、「空間感」がない演劇人は駄目だとおっしゃっていたが、横揺れも縦揺れも実感出来ない私は、駄目な演劇人に違いない。
31日、尼崎市のピッコロシアターを訪ねた。外から見る分には無傷であるが、器材等、ある程度の補修は必要だという。
自主公演は、3月末まで自粛するという。
役者さんに年棒がある、県立のピッコロ劇団もあるし、兵庫県は、演劇にかなり力を入れているのだが、今回の被災でどういう影響があるか、まだ分からないそうだ。
話は前後するが、28日、新神戸オリエンタル劇場に行った。建物はほぼ無事だそうで、休館はしているが、水が出るようになった27日から、同じビル内のデパートが営業を再開したのと共に、窓口は開いている。交通事情等で、公演の再開はいつになるか分からないという。
同じビル内のホテルは、ガスが出ないために営業出来ない。衣食住が満たされた上での演劇であるという限界性は、常に認識しておくべきだろう。私のように、衣食住何も満たされていないのに書いているのは、ただのアホなのだ。
2月4日にもう一度行って、(阪神青木駅で降りてから、歩いて3時間かかる。)窓口で尋ねると、3月と4月、劇場をチャリティーイベントに開放することにしたという。
2月1日に尼崎市内の近松の墓に行ってみたら、周りの墓は倒れているのに無事だった。10円でテープの声の解説を聞けた。
同じ日に宝塚に行くと、「花の道」沿いのいくつかの建物は、二階が一階になってしまっている。
戦中には、大劇場が予科練に接収され、私よりも若いような男達が、特攻作戦に飛び立って行ったという。そういった歴史のように、今度の地震も忘れられてしまうのか。
宝塚バウホールで2月4日から12日まで公演予定だった「殉情」の作・演習の石田昌也氏に、31日に梅田で会って話をうかがった。
かつて私が制作助手をしていた頃に仕事をして、旧知の人だ。昨年7月の、歌劇団80周年記念ロンドン公演に同行されていたという。その頃私は、ロンドンを出てパリにいて、「架空のオペラ」を書いていた。ヨーロッパを8ヵ月歩き回って、日英仏混成チームで制作した、私が原作者である映画は、未完の失敗作に終わった。
石田氏の話。
「今回はちょっと参ったな。ほんまやったら、今日はもう本通しみたいな感じで、明日が舞台稽古や。生徒をホテルに泊めて通わして、プロパンガス運んで、うどんとカレーぐらい作って、井戸で水くみ上げて、トイレ使えるようにして、徹夜突貫工事してでも、公演やるつもりやってんよ。23日に稽古用の録音とるって、オケも来たし、皆着物着て集ってん。しんどい思いして集って、やっぱり無理ですって。みんなズルッとひっくり返ってん。でも、しゃあないわな。支配人さんが、自宅でなくならはったし、いろんな事情があったと思う。大劇場は、スプリンクラーが作動して、奈落がプールみたいになってんねんて。バウホールは、水びたしになってないみたいやけどね。中に入れてくれへんから見てへんけど、吊り物とかタワーとか、ゆがんでもうとるやない。線路より太い鉄骨も、ぐにゃっと曲がってしもてんて。もし劇場がなおっても、電車が動かなお客さんが来られへんやんか。休んでる間に、お見合いしてやめる子も出て来るかもね。これがサヨナラ公演やった子とか、どないすんねんやろか。でも、3月の終わりに、復旧するんじゃない」
石田氏のお話からは、いつも多くの刺激を受ける。手塚治虫のブラックジャックの正体は、キャプテンハーロックではないかなどという馬鹿な話をして別れた。
歩けるだけ歩いてみて気づいたのだが、被害の多い地帯に行く程、私の歩みは速まるのだった。焼け野原になってしまった長田区など、ほとんど走りっ放しであった。なぜだか少しも疲れなかった。疲れを感じる神経がぶっ飛んでしまったのかもしれない。
今、2月7日であり、伊丹市立美術館のロビーでこれを書いている。燃えてしまった阪急伊丹駅から、歩いて5分しか離れていないのに、ここは、まるっきりの無傷である。
カントール展をやっている。客は少ないが、色んな思考を誘発される。
同じ劇作家といっても、カントールと私が、天と地ほどに違うのは当然だが、同じ震災に対しても、人々の経験の質や、把握している情報の量がまるで違い、現実とは何だろうかとか、考えた。
井上ひさし氏は、日本の劇作家には、英雄伝説はあっても、黄金伝説はないと言われた。
私が、戯曲だけで食えるような時代が、果たして来るのかどうか分からないが、とりあえず、この文章を書き終わったら、東京に戻って、職探しを再開せねばならない。
瓦礫の街を歩き回って改めて思ったが、世の中には、数え切れない程の人生と商売がある。
何をやってでも生きていけるだろう。何をやってもよい。
今はただ犠牲者の冥福を祈り、描写教訓の才の不足を嘆くのみである。
〔1995年2月〕