母さん
「空の青さも、流れて行くのよ」
いつだったか、母さんが言った。
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「花の色も、一秒ごとに違うのよ」
そう言っていたこともある。
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母さんは、父さんと結婚する前、花屋さんで働いていたという。その花屋さんは、父さんの勤めていた新聞
社の建物の前にあったそうで、ほかの女の人にあげるつもりの花束を買いにいったところ、それを選んでくれた母さんに、父さんは、ひとめぼれしてしまったという。
「買ってすぐさま、それを私にくれたの」
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カンで行動するあたり、おれは父さんに似ているのかもしれないなあ。そのシーンは、ちょっとした絵にはなると思って、一度描いてみたことがある。父さんは、新聞社の机の上に飾ってくれていると言っていた。
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その絵は、おそらく燃えてしまったのだろう。
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そんなにたいした絵じゃなかったから、燃えてしまったことは、かまわない。ビルごと消えてしまったのだ。
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1995年1月のあの地震によって。新聞社に残って、徹夜で仕事をしていたらしい父さんとともに。
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らしい、としか、おれには言えない。
なにひとつ、おれは覚えちゃいないのだ。
あの朝から一月ばかりは。
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気づいたときには、母さんと二人、この町に越してきていた。
父さんの葬式も、既に終わっていた。
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あのときは大変だったでしょうと、なんども人に言われたけれども、いつも、おれは笑って受け流した。記憶にないから、答えようがない。
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あのときに一度、おれも死んだのかもしれない。
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あるいは死んだ絵描きの魂が、おれに取りついたのかもしれない。
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越して来てからすぐに母さんは、電車で三十分ばかりで行ける京都で喫茶店をはじめた。
「ガーデン」という名の店だ。
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花で飾られている店だけれども、大事なのは花の数ではなくて、花の色それぞれのバランスだと、母さんは言う。
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けれどもおれには、色のことはよくわからない。
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花の手入れをするためもあって、ほとんど休みをとることもなく、母さんは働いている。
いっしょに食事をするのは朝だけ。
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店の近くに引っ越すことも考えたらしい。
けれども、おれはいやだと言ったそうだ。
なにか理由があったのか。
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一人でご飯を食べたりするのがさびしいと思ったことも、ないはずだ。自分で温めなおすのも、面倒ではない。いつのまにか、簡単な料理くらいは作れるようになった。
他人が食べておいしいかどうかは、しらない。
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店の経営はうまくいったようで、じつははじめはたくさんあった借金もなくなり、別の店を夜遅くから夜明けごろまでやる ようになった。ワイン・バーだというけれども、そちらには行ったことはない。昼前から開けている「ガーデン」のほうは、夕方までは、人に任せるようにしたらしく、おれと朝飯を食べたあとは、昼間はずっと寝るようになった。
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おれは、よかったとおもっている。生き生きとして見えるからだ。
仕事がうまく行くのは、何よりいいことだ。
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家の中には、花はない。
疲れと花とは持ち帰らないと、母さんは言う。ワインもない。そのバーは、ワインの色にあわせ、赤と白とを基調に彩られているという。
想像だけど、カウンターは黒いんじゃないか。
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一度だけ、聞いたことがある。
「お店じゃあさあ、おれはいないことになっているんじゃない」
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ためらいもなく、母さんは、すぐに答えた。
「なに言ってるの。あなたの話ばかりしてるのよ」
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嘘だろうと思ったけれども、どうやら本当だったらしい。
それを教えてくれたのは、法一おじさんだった。
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「いないことになっているおれ」を一人で想像したことがある。「絵になる」ような気がしたけれども、それはいったい、どんな絵だ?