自分よりも長い背丈を持つミミズに食らいついたトカゲを見た。盆に実家にもどった折、空海が修行したともいう、星の降る里と呼ばれるあたり、岩船という巨岩が川とその周りに散在する地帯から奈良に抜けていく山道を一人で歩いているときだった。なぜかすっぽりとミミズは体の中に収まり、さほど間もおかずにトカゲは、なにもなかったように悠然と立ち去って行った。同じ場所で、トカゲではなくカエルを捕まえようとしていたことを思い出す。二十数年前になるだろう。ゆうじさんが横に立っていた。小さな川の流れの中でカエルを追い、水でズボンと靴下を濡らしたところ、ゆうじさんは、着替えを取り出したのだった。ばあさんから預かって来ていたらしい。あのときに法一を見ていた眼差しは、かわいいと思うと同時にかわいそうだと思っている、慈しみの目であったことに、今頃になって、思い至る。「大人になっても、おじさんと遊んだことを、忘れないでな」と、ゆうじさんは言っていた。「忘れるかもしれない」と法一は答えたけれども、忘れてしまうことがなんだか悲しく思えてしまい、二人して遊んだ姿を絵にして、よく思い浮かべていた。癖のように、その絵を頭に描いていたので、二十年以上経った今でも容易に思い出せる。手をつないで夕陽に向かった、なぜだか後ろ姿なのだった。絵として思い出すということを何千回と繰り返したので、記憶に残っているものが実際の出来事なのか、思い出と化した別物なのか、わからないのだ。思い出したものを思い出したものを思い出したものを・・・。指切をしているシーンも記憶にあったが、何を約束したのだったか。いずれ他愛もないことだろう。そう言えば、指切という名を持つ人は生涯に何度ほどの約束をするのだろうかと、ふと思う。指切さんという人がどんな人かというと、秋月が教えてくれたところによると、「日本のブラック・ダリア事件」と呼ばれる事件を映画化した作品でデビューした女優なのだという。どこか地方から上京して、芸能界入りを目指した少女が、お定まりのように騙し騙され、遂には殺されてしまう、そんな事件を基に書かれた小説の映画版から出発したというのだった。事件自体は知っていたけれども、小説や映画があったことはしらず、ましてやその主演女優など、まるきり別の世界の住人、友人の恋人だろうが関心はなく、ただ唯一、そういう役から始めていながら、その後の仕事は順調に行っているらしいという、運命の有り様にだけは興味がある。平坦な日々を淡々と過ごしてきたつもりの法一には、起伏ある人生、さらに言えばその浮き沈みのメカニズムほど、尽きせぬ謎はないのであった。生活に陰影をもたらすものは、眠りだろうか。毎日というわけではないが、目覚めて部屋を出るときにドアを開けるたび、世界が白紙に返っていやしないかと、かすかな期待のようなものを持つ。二週間ぶりに東京に戻り、部屋に帰る。ドアを開けると、それは起こっていたのだった。留守録に吹き込まれた、女性の声。指切と申します、と始まっていた。計三件、同じ声が吹き込まれてあり、こういうことであったらしい。秋月が死んだ。夜中に電車に轢かれることで。遺書はなく、締め切り前の作品は描きあげてあった。周りの誰に聞いてみても、予兆はなかったというのだが、自殺として片付けられることになりそうだ。創作に行き詰まったとかいう俗な話にされて。それはないだろう。やつは描き方も締め切りも自分で決めて必ず守り、自分で決めたことを守り続ける限り、枯渇などないと確信していた。決められないことは決めないはずだ、生死など。人生の目的について、秋月が語っていたことがある。いい作品を描くこととか、作品を後の世に残すこととかいうのかとおもいきや、まったく違った。いいうんこをすること、それがそうだというのだった。心身の健康を表しているからというのだ。限りなく健康でいなければ、悪も邪も、花鳥風月も、なにひとつ描けはしないというのだ。そして、自宅であれ他所であれ、便所で用をすませたら、そこのペーパーで綺麗に掃除をしないと、出ない。なぜかと尋ねたことがある。おれが汚したと思われたくは、ないからな。そう答えたが、そればかりでもなかろうと、そのとき、感じた。ともあれ、後始末をきちんとする男だったのは、確かだ。果たして自殺などするだろうか。するとしても、死体を残さない方法を選ぶのではないか。
通夜にも葬式にも出損なったのが、悔やまれる。長年の友情に、何らかの始末をつけねばならないな。