ばあさん、はやく死なないか。時に法一はそう思う。唯一の肉親であるにもかかわらず。ものごころついてから、ずっと気になっている謎について、私が死んだら開封していいと、手紙に書き残しているというのだ。法一の両親、ばあさんにとっての息子と嫁の夫婦についてその死に際の有り様を。調べればわかったのかもしれないが、なぜかその気が起きたことはなく、おせっかいな人が、教えてくれることもなかった。子供の頃の法一が最も親しかった、ゆうじさんというおじさんだって言ってはくれなかった。おじさんといっても血の繋がりがあるわけではなく、ばあさんが大家をやっていたアパートの住人だった。ゆうじさん、ゆうじさんと呼んではいたが、それが姓なのか名なのかさえ、知ったのは小五ぐらいのときではなかったか。それは姓であるらしく、「有時」と書くと、これはいつだったか、ばあさんが教えてくれた。ただ、その意味は、いまだ知ってはいないのだが。「ゆうじさん、どうして結婚しないの。法一と会いたいから?」などという意味不明なことを言ったのは、五歳ぐらいの時だったか。といっても、言った本人は覚えてはいなかったのだが。後にしばしば、言われた方が口にしていた。「結婚したって、会えるじゃないか」と、さも楽しそうに、その度に、ゆうじさんは言うのだった。法一とゆうじさんとは、月に二度くらいだろうか、近所にある公園で、キャッチボールをよくやった。子供の掌にすっぽりと収まるほどの小さなボールを使っていたのだが、「このボールは、俺のオリジナルなんだ」と、ゆうじさんは言っていた。「東山のあたりのお寺、いつか君と行ったことがあるだろう。あそこで見たあれ、覚えているか」「あれ」というだけで、わかってしまう。あの坊さんの像だろう。口から小さな仏さんが六体だったか、わき出ているのだ。「あんな感じでさ、俺の口からボールが六つ、わいて出たんだ」本当だろうか。白いボール、黒いボール、青いボール、赤いボール、黄色のボール、緑のボールと、確かに六色のボールだったけれども。一色につき一つのボールしかなかったのか、同じ色のボールはいくつもあったのか。口から出てきたのであれば、食べられるかもと思わないでもなかったけれども、ゆうじさんが持ってきて、自分で持って帰るので、試すことはできなかった。「人生の基本は、キャッチボールだよ」ゆうじさんが言っていた言葉は、今でもよく思い出す。というよりも、法一の信条のようになってしまった。ボールは常にオリジナルでなければならない、ということと共に。その公園は、「イオン公園」という名を持っていた。もともとは、池だったという。平安時代の和歌にも出てくる「異音池」という池があったというのだった。まわりを歩くと二時間かかったというから、それなりの広さを持っていたようである。淀川とも、つながっていたはずだ。たぶん秀吉が、時に起こる洪水があまりにひどかったため、半分くらいを埋め立てて、そこを田んぼにしたとかいう。その後も少しずつ縮小し、もはや公園の片隅の、一分でまわりを歩ける程度の池になってしまった。そもそも異音とは、なにか。妖しい鳥の鳴き声がそれだったとも、楽師の霊が奏でる妙なる調べがそれだったとも、大洪水が始まる時の音がそれだったとも、言われている。ゆうじさんは、よく言っていた。「俺には今でも聴こえているがね」「今って、今?」「そう」いつ聞いたのかも定かではないし、はっきりとゆうじさんがそう言ったのではなかったのかもしれないのだが、法一の理解するところ、ゆうじさんの仕事は、仕事とも言えないようなものだった。どこからお金を貰っていたのかも、知らない。「貯金はないけど、借金もない」と、自嘲とも自慢とも取れる言い方でよく言っていたけれども。何日か部屋を空けている間に、どこかで働いているのだろうと推測できたが、何をやっているのかは、ばあさんすら知らないのだった。家賃を滞納したことは、ない。法一の理解する限り、ゆうじさんの仕事とは、「神の子を捜すこと」なのだった。結婚しないのも、そのせいだろうと勝手に考えていた。一度だけ訊いたことがある。「見つけたら、どうするの?」涼しい眼をして、こう答えた。「育てるか、殺すか。どっちかだ」