何かひとつだけ好きなものを、三十歳になるまでに見つけたいなどと、誰だったかに言ったことがある。誰だったか。いつ頃だったか。見つけたらそれを、死ぬまで大事にするのだと、法一は確かに言った。しかし、実際は、何ひとつ発見できずに、三十二歳になってしまった。ただし、ひとつだけ、見つけたというよりは見つけられたというか、取りつかれてしまったものがあるとは言わざるを得ない。それはひとつの言葉なのだった。シャツのように身にまとってしまっているとでもいうか、いや、もはや皮膚の一部にさえなってしまった。その言葉の意味は、実は、よくわからない。ある朝、目を覚ましたら、それは訪れていたのだった。何の苦もなく彫られてしまった刺青のように。まったく頼みもしないのに。誰が彫ったのか。これは覚えていないのではなく、はじめから知らされていないのだろう。いつだったかは覚えている。二の五乗、三十二歳の誕生日だった。これまた誰かも思い出せないあるピアニストは、三十二歳の時にコンサート活動を一切やめて、レコード造りに専念したとかいう。
頭の中身をだったか、皮膚で感じることをだったか、なるべくダイレクトに聴く人に伝えたいとか言って。そんなことは不可能だろう。だが挑んでみる価値はありそうだ。人間などというものは、何らかのものの受信機であり、同時に発信機でもあるという、それだけのものであるのかもしれない。であればそのものの機能を、少しでも高めようとすることは、間違っていまい。法一がはじめて受信したのは、ひとつの言葉。それを外に向け、発信しよう。言葉だけなら簡単なのだが、まずその意味を、みずから把握せねばなるまい。あるいはその言葉の意味は、他人から教わることになるやもしれぬ。まだ何ひとつ、わからないのだ。それでいい。急がば回れということもある。ようやっと、思い出した。二の四乗、十六歳の頃だった。相手は秋月だっただろう。高校の同級生だった。それを、あいつは、すでに見つけていたのだった。漫画を描くということだった。いつの間に修行していたものか、法一が初めてそれを見た時には、既に独自のスタイルを身につけていて、プロとして通用するかもしれないという匂いがあった。
漫画家になること以外は考えていないが、しばらくは親をだますために、東京の大学に行く、どうだ近所に部屋を借りて、たまに会おうじゃないか、秋月はそう言った。そういやあ新宿に住みたいなどと、ふと洩らしていたこともあったなあ。目標の定まった友人に対し、何もなかった法一は、何かひとつだけどうたらと、遥かなる未来に思えた年齢を持ち出したのだ。できることはやりたくないし、やりたいことはできないだろうと、妙な予感だけはあったが、口には出さなかった。上京して、一年も経たなかっただろう。週間の漫画誌に連載が決まったと言った。すぐに打ち切りになるんじゃないか、競争原理が働いている世界だからなあ。そう言いながら、いつまで経っても淘汰されないで、法一が、たまにコンビニで雑誌を立ち読みしても、本屋をのぞいてみても、秋月の作品を見ることはできた。その作品は終わらない作品で、単行本も、何十冊も出ていた。ネタに詰まったことはないよ、寝ている間に、小人が考えてくれるのさ。なんだ、その小人って。おまえにも一人、譲ろうか。いらないよ。
小人が運んできたアイデアを、組み立て直すだけだと言うのだ。その作業は、散歩しながらやるという。雨が降ろうが晴れようが、暑かろうが寒かろうが、毎日必ず三時間ばかり、歩くというのだ。規則正しい習慣とともに、小人あり。天使と言ってもいいだろう。一九八八年春、浪人せずに大学に二人とも入り、秋月は高田馬場の駅前のマンションに、法一は、そこから歩いて五分くらいの都電の面影橋の駅近くのアパートに、それぞれ部屋を借りた。法一はずっとそこにいたが、プロになった秋月は吉祥寺あたりに別の部屋を借り、はじめの方は仕事場とした。そしてほぼ毎日通い、行きか帰りのどちらかは歩いたのだった。夜中には線路の上を。健康の管理にもいいからな、散歩は。肉体あっての頭脳労働だからなあ。いつまでもぶらぶらしているだけの俺に、あいつは季節が変わるごとに電話を寄越し、寿司などをおごってくれた。小人だか天使だかを譲ってくれよと冗談で言うと秋月は、いや、あの件は相談してみたんだけどさと言葉を濁した。あいつらのすることなすこと、はじめから決まっているんだってさ。
一体何がと問うてみる。いや、何もかもがだ。ナニモカモ。